わかりやすいアウトプットをするときの心持ち
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@kz_suzukiさんから「わかりやすい」「やさしさ、ていねいさを感じる」と言っていただいたことがあった。
伊藤さんのもわかりやすさレベルが高いんだけど、それ以上に何というか「やさしさ」「ていねいさ」を感じる。どうやったらこういう雰囲気醸されるんだろうね。
— Kazu SUZUKI (@kz_suzuki) December 29, 2023
1人目QAの人の強い味方になる情報だ。https://t.co/TpVCVNDhl2
もちろん、会社のテックブログやWebメディアでの連載を書くときなどは「わかりやすく書こう」「伝わるように書こう」と思って書いている。また、同じようなシチュエーションであれば、ほとんどの人が同じように考えて書くとも思う。
ただ、自分がそうやってコメントしてもらえるのは嬉しいし、今後もそう感じてもらえるような文章を書きたい。
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そういえば大学時代に趣味で映画を撮っていたときにも、見てくれた後輩から「わかりやすい」と言ってもらえたことがあった。すごく偏見に満ちた言い方をすれば、自主製作映画を撮っているような当時の大学生というのは精神世界をこねくりまわしたような「わからなさが価値」みたいな映画も少なくなかったように思う。 そうしたものの中で、たぶん「起承転結があるし意味がわかる」と感じてもらえたんだろうと想像する。 もしかしたら、当時のなにか体験が今書いている文章を「わかりやすい」と思ってもらえている根源にあるのかもしれない。
映画の話から戻って、わかりやすい文章について考えたい。
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わかりやすさ、とはなにか。
わかりやすい、わかりにくい。これらを分けている要因はいくつもあると思う。
ただ、自分にとって、自分が書いている文章にとっての「わかりやすさ」のひとつの側面が「受け入れること」にあると思う。受容、と言ってもいいかもしれない。
わかりやすさというのは相互受容ではないか、と自分は考えている。
読み手は、文章を受け入れる。文章の主張を受け入れ、意見を持ったり、行動を起こしたりする。ここでは必ずしも受け入れる=同意する、ではないけれども、読み手が反論したくなっている状態は受容とは言わない気がする。
逆に文章自体も読み手を受け入れる。わかりやすいように、読み手をなるべく排斥しないように書かれるのが良いと思っている。 もちろん文章にはターゲッティングもある。自分向きでない文章も存在する。それでも、言葉の選び方などに気をつけることで、読み手の印象はだいぶ違ってくる。「自分はターゲットじゃないんだな」と思うか、それとも「自分が排斥されている」と感じるか。これらは大きく違う。
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翻って、自分が普段Webメディアなどで書くときの思考について考えてみる。
自分は文章を読んだ人に行動を起こしてほしい、のはもちろんあるけれど、その前にまず「受け入れてほしい」と考えている。もちろん内容に誤りがあったり、おかしなことを書いていたりしたら、その点に関して指摘がもらえるのはありがたいことだと思う。ただ、それは真っ当な指摘のことで、その前提として書いてある内容を受け入れ、「なるほどそう考えたのね」と思ってほしい。
そのためには、相互に受容する文章、つまり
- 読み手のことを受け入れられる文章
- 読み手から受け入れてもらえる文章
を書く必要がある。
そう考えると、強い言葉を使ったり、悪い意味で煽ったり、そういうことをするよりかは「やさしく」「ていねいに」書くことが大事なのでは。
もちろん常にうまくいっているわけではないけれど、冒頭の@kz_suzukiさんがコメントをくれた記事など、少なくともたまにはうまく相互に受容する文章を書けているのではないか。
できるだけいつも、そういった文書を書けるようになりたい。