習慣化にはごまかせない完了定義が必要

タイトルの通りで、なにかを習慣化しようと思ったら、ごまかせない完了定義が要るよな、と発見しました。 どういうことか。

習慣が形骸化しがち問題

前に「毎日1本ずつ論文を読むぞ!」と決めて実行していた時期がありました。ある程度はうまくいっていたのですが、この手の「毎日**する」という習慣って形骸化しやすいんですよね・・・。

形骸化のパターンとしては、「毎日やる」ことが目的になってしまって、中身が伴っていない、というものです。

たとえば先の例の論文読みだと、最初のころはパソコン等でメモを残しつつ、ちゃんと内容理解しながら読むんです。ただ、一週間二週間とやっていくうちに、「今日は忙しかった」とか「子どもがなかなか寝なかった」とかなんらかの理由で、ちゃんとできない日が出てきます。

このときに、「毎日読むと決めたから」といって、すごく短い論文を斜め読みして終わりとか、メモも取らずにアブスト読んで「はい読んだ」という扱いにしたりとか。要するに手抜きになっていきます。

そもそもなぜ毎日論文を読もうと思ったのか、の目的に立ち返ってみると、学びたいからです。当然ですね。継続的な学びによって自分に力をつけていくことが目的です。決して、読んだ日数をカウントアップしていくことではありません。

なのに、「毎日やる」と決めたからといって1日1日が雑になってしまいがちで、結局目的が達成されません。いいかげんにやったとて力はつかないので。

ここでは毎日論文を読む例でしたが、他のことでも同様です。ブログを書くとか、なんでもそうです。つい「毎日やる」等の継続が目的になって、本末転倒な状態になりがちです。心当たりある人も多いのでは・・・

形骸化しない習慣、ちゃんとやれている実感のある習慣もある

一方で、です。

そんな自分であっても、毎日のように続けられていて、かつ意味のある習慣もあります。たとえばモーニングページもその一つです。

毎日論文を読むのは形骸化して、モーニングページは形骸化しないのはなぜだろう。これが疑問の一つ。

もうひとつは、エアロバイク。これは毎日ではないですが、コツコツと続けています。これも、自分の中では形骸化せずにできている実感があります。

論文を読むのと、エアロバイクを漕ぐこと。これらの違いはなにか。これも疑問。

同じ「習慣化」というくくりでいえば、モーニングページが習慣化できているのだから、論文読みもできるはずです。これらの違いはどこにあるんでしょうか。

このあたりをぼんやり考えていたところ、一つの結論にたどり着きました。

完了定義を都度変更できちゃうのはアウト!

ここでタイトルに戻ってきます。

習慣化したいものごとの「完了定義」を、そのときどきで変更できるものはダメなのでは、と思います。続けることが目的になってしまって、形骸化します。

自分がなぜ「論文を読む」を習慣にしようとして失敗したのかというと、何をもって「読んだ」とするのかが曖昧だったからです。毎日の状況に応じて、「今日はアブストに目を通しただけで、この論文を読んだということにしよう」など、変更してしまっていたのが問題でした。普通に考えてズルですしね。ゴール変更するのは。

一方うまくいっている、モーニングページやエアロバイク。こちらは、明確な完了定義があります。

モーニングページであれば、B5のノート3ページ書いたら完了です。エアロバイクも、基本は30分漕ぐことを完了としています。

このように完了定義が明確なものは「できた」「できていない」がハッキリするので、ごまかしが発生しづらいです。結果、自分の中で「これは習慣化できたぞ、継続できているぞ」という自信が持てますし、実際の効果にもつながります。

ということで、たとえば毎日論文を読むことを習慣化しようと思うのであれば、

  • 毎日15分読む
  • 決まったフォーマットにそって記載したうえでTwitterに投稿する

など、完了したかどうかが明確で、かつ気分で変更できないものを基準としてできた/できていないを管理するべきでした。

継続が目的のものは良いと思いますが、その先のなにかが本当の目的であれば、この完了定義には気を付けて習慣化したいものです。

Yoshiki Ito
Yoshiki Ito
山形出身 千葉在住の本業QAエンジニア
2024-11-07

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