文章力を身につける以前に「好き」が足りていないことに気がついた
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最近『20歳の自分に受けさせたい文章講義』を読んだ | 夜間考察報で書いたように、文章力を高めたいと思って本棚にあるそれ系の本をあれこれと再読していたりしました。
ただ、自分で「文章力がついたな!」と実感することってほとんどなくて。なんとなくブログを書いては、「もっといい感じにかけないものか」とずっとモヤモヤとした気持ちを抱えていました。いや、います。
先の記事のように、読んだ本の感想を書いてみても、どうにも「渾身の記事を書いたぞ!」感がない。毎日書くようなブログで「渾身の」なんて期待するのがそもそも違っているのかもしれません。Twitterのつぶやきの一つ一つにパワーを込めているわけではないように、個人のブログなので撮って出しならぬ書いて出しでやっています。
ただ、文章のテクニックなどとはまた違った、自分が書いた文章を自分で「良い」と思えていないような、そういった感覚がずっとあります。
で、これがなんでなんだろうなと。
ブログを1000文字2000文字書いて公開することについて、心理的ハードルはほぼありません。言い方が悪いですが、個人ブログで推敲ガッツリやらないものであればちょちょっと書いて出せます。
書くハードルは低いのに、書いたものに満足していない。そんな状態です。
ジスロマック氏の記事を読んでいたら気付いたことがある
私が「この人の文章は好きだな」と思う人は何人もいますが、ゲームの感想・・・感想の域は超えていますね。ゲームの記事のグイグイ引き込まれる感がすごい人として、ジスロマック氏という方がいます。
たとえば直近の、聖剣伝説レジェンドオブマナの記事>人生、哲学、愛━━そして聖剣伝説 LEGEND OF MANA|ジスロマック
これを読んでいると、自分がプレイしていたときの思い出が蘇ってきますし、また遊びたくなりますし、そう思わせるだけのパワーがあります。
もちろんジスロマック氏も記事を書く際に色々考えてらっしゃるんだろうと思いますし、自分が気づいていないだけで様々な文章術やテクニックが盛り込まれているのかもしれません。が、本質っておそらくそこじゃないよなと。
「この人、めっちゃゲーム好きなんだな」と。気付いたわけです。
自分に足りなかったのは「好き」度ではないか、という仮説
文章力、みたいなものはもちろんあるほうがいいでしょうし、今の自分に文章力がどれだけあるのかはわかりません。が、そこをもし伸ばせたとしても、たぶん自分のモヤモヤは晴れんなと。むしろ文章力などは置いておいても、書いているモノや対象に対する好き度、熱量と表現してもいいかもしれない。そういうものが無いから、書いた文章が自分で読んでいても「これは良い」「他人におすすめしたい」とならないんだなと。そんな仮説に行き着きました。
昔から飽きっぽかったりして、たくさんのものをちょっとずつ好き、興味がある状態でした。一方で、なにか「これ」というものに対して熱中したり、一生懸命になったりという経験は正直、人生でほとんど?もしかしたら全く?ないのではと。無自覚にコンプレックスだった部分に、文章という切り口で再度スポットライトを浴びせてしまった形です。つらい。
じゃあどうするの?→他の本にヒントを探しに・・・
ジスロマック氏の文章のおかげで自己理解が少し進みました。それ自体は良いことなのですが、自分の書く文章についてモヤついたまま居るのは気持ちが悪いので、なんとかしたいです。
いろいろな対処方法があります。
「好き」とか「熱量」など不要だ、と割り切る。でも文書力のようなスキルは身につけつつ、淡々とブログやWebメディアに記事を書いてくスタイルになる。自分がよく森博嗣スタイルと呼んでいるものに近いです。これが一つ。
別のものとしては、「好き」とか「熱量」のようなものを持てるようになるパターン。もう自分もいい歳なので、性格や特性を変えるに近いこのパターンはなかなかに茨の道のように思います。
正直どちらがいいのか、あるいは両立させて切り替えられるようなものなのか、わかりません。なので一旦両方チャレンジしてみようかと思います。
なんて思っていたところに、ちょうど良い本があり、読み始めました。
まだ前半4割くらいしか読んでいませんが、この「好き」の言語化というのが自分にとってのキーになりそうな印象でした。
自分の「好き」をなんとなくでしか捉えていないので、好き度が低いように感じているのでは。ここを丁寧に言語化して、自分の「好き」をより解像度高く自覚することで、そもそもの好き度自体が増して、熱中できるのでは。
そんなふうに思っています。