『「好き」を言語化する技術』を読んだ
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面白い本だった!
・・・という話で終わっちゃってもっとちゃんと言葉で表現できるようになりたいよー、という本ですね。一見。
サブタイトルが
推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない
となっています。
前回の記事(文章力を身につける以前に「好き」が足りていないことに気がついた | 夜間考察報)で書いたように、それこそこういった読んだ本の感想記事とかで「もっとうまく語れるようになりたい」と思ったのがキッカケで読みました。
うまく、というのは技巧的にではなく「自分が納得するように」ですね。
推しに対する好きの言語化というコンセプトは実は真のメッセージの表面でしかない
ように感じました。
このあたりはあとがきに書いてあるのですが、そもそも著者がこの本を書くに至った理由として、SNS上で飛び交う言葉(これを著者はナイフに例えている)から自分を、自分の言葉を守れるように、といった思いがあるそうです。
それと「好き」の言語化とがどうつながるのか。
本書全体を通じて書かれているのですが、 「自分の言葉」というものがない状態、たとえば推しに対して「やばい!」としか表現できていない状態で、他人が「ここがこう良い」とか「ここがこうダメ」と言った・書いた言葉がやってくると、あたかもそれが自分が感じたことであるかのようになってしまう。SNS上を飛び交う強い言葉や他人の感情が、自分に入ってきてしまう。
これは良くない、と筆者は捉えています。
じゃあどうするのか、が「好き」の言語化です。
本のタイトルは「好き」の言語化となっていますが、おそらくこれはわかりやすく表現するためにこうなっています。実際には、自分の感情(「嫌い」も含めて)と向き合って言語化しましょうと。これは、他人の言葉を見る前に、です。
「やばい」等ではなく、できるだけ細かく、自分が何を好きと(あるいは嫌いと)感じたのかを言葉にする。これは慣れないと大変なので、この細かく言葉にする際のステップや考え方自体も本書では説明されています。
自分の感情を言語化することで、それが自分の言葉として持てるようになります。その状態で他人の言葉に接すれば、他人の意見や感情、ナイフから自分(の言葉)を守ることができる。という趣旨の内容になっています。
こういった話をわかりやすく伝える、手にとってもらいやすくするための切り口が「推し」であり「好きの言語化」だと捉えました。
同じ三宅氏の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』も以前読んだのですが、「とっつきやすそうなタイトルなのに読んでみると本気のやつじゃん!」と思いますね。好きですそういうの。
鷲田清一を感じた。
本を別の著者で例えるのはどうなの?と思いつつも、この「好き」を言語化する技術の内容、単に推しへの思いをSNSでうまく書けるようになろう、等にとどまらない中身のところを読んで感じたのが、「鷲田清一が言っていることに通じるな」ということでした。
このあたりですね。鷲田清一が言うには、自分とは内面に潜って見つかるものではなく、他者の存在を通じてその輪郭がわかり、そして初めて自分を認識できる、です。(間違ってたらすみません)
『「好き」を言語化する技術』においても、自分というものが全く定まっていない状態で他人の言葉や意見が飛んでくると、境界がないので自分にはいってくる、侵食されてしまうという話でした。なので、自分の言葉というのを先に作ることによって、自分と他者との言葉の違いor同じところが認識できる。その状態になれば、自分の言葉は確立されていて、他人の言葉に侵食される危険は減る。
と、読んでいてこのあたりまで思考が広がって、自分としては非常に楽しい読書体験でした。読んでいてその本に入り込みすぎないというか、その本自体が呼び水となって思考があちこちに散乱する本、は良い本の証だと思っています。